自然科学と社会科学の論理について

 社会科学において、論理展開が苦手な日本人がいたりする。

 

 法律はかなり論理的に説明する必要がある。犯罪の証拠から犯人を捜す場合や、有罪を立証するときも、物的証拠から論理的に筋道を立てて説明するのが、検察官と弁護士である。

 

 この論理というものがあって、昔は論理学という専門の領域があったようである。

 

https://ja.wikipedia.org/ 論理学 - Wikipedia

 

 数学は、論理的な考え方を学ぶ道具であり、自然を説明するための道具でもあり、工学のように電気、機械などを利用、操作するための道具でもある。

 

 また、現代では自然科学と社会科学が分かれてしまっていて、社会科学の経済学や社会学、法学、人類学、心理学、哲学などの分野において数学や物理学ほどの厳密さで論理展開がされていないのではないかと考えられる。

 

 日本では、社会科学分野での批判というものが、相手への攻撃ととらえる風潮があるような疑いがある。

 

 物理学や化学、生物学でも理論というものは、その自然現象の説明を部分的にする仮説(仮の説明、間違っている可能性のあるもの)という意味である。

 

 数学のようにすべて正しい理論ではない。数学の場合は、自然とは切り離されて論理的に矛盾がまったくないものということである。そのため、数学の論文は正しさを判定するのに時間がかかるようである。

 

 つまり、自然科学の分野では、誰かが意図して論理を捻じ曲げることは普通はしない。それが常識であり、誰かの都合で自然が変わったりしないという暗黙の了解がある。

 

 そして、対立する仮説や理論などがあった場合、いずれ収束する方向の理論ができたり、理論が修正されたり、便利になって計算しやすくなったりなったりする。